文章を上達させたいなら、言葉を知り、表現すること。続けること。

    

人は環境に規定されるいきものだ。あなたはあなたの環境から予想されるパラメーターの集合でしかない。文章のうまい下手も同じで自分を取り巻いてきた環境、つまりこれまでのインプットの質×量で決まる。

書けば書くほど上達する?

たとえば、文章がうまくなるにはどうしたらいい?というネット上の問いがあって、そんな切実な疑問に対しての「書けば書くほど上達する」という精神論的な返し。あながち間違いとも言えないのだけど、それがすべてだと思っていたら、後々つらい。

経験則で言うと、たしかにそうすることで文章を書くということに抵抗感はなくなる。でも根本的な解決にはならなかった。そして、ある時を境にまた、パタリと書けなくなる。

なぜ、文章が書けなくなるのだろう?そう考えた時、答えはすぐに出た。

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近しい間柄で共有する文章というものは、最低限、文章の体(てい)を成していれば読んでもらえるものだ。そこで、おまえの文章は下手くそだのとわざわざ指摘してくる人はいない。そのような閉じた環境は周りの誰しもが顔見知りだから必然的にぬるくなる。

じつは、”ある時”というのは自分の満足できる水準が高くなった時のことで、そこにあるのは他人からの評価ではなく、文章に対する相対的な自己評価。言い換えると理想と現実のギャップだ。

解決するのは簡単だ。高みを求めずに現状で満足すればいい。自分の限界を認めればいい。そして、ぬるま湯に浸り続ければいい。ただそれだけ。

だけど、中にはそれができない人がいる。それは、表現に対して”それなり”とか”ほどほど”なんていう曖昧な態度をとることに不自由さを感じる人だ。だから、切実な「どうしたらいい?」という問いになる。

どうりで世界は狭いわけだ。

最近、「弱いつながり-検索ワードを探す旅」(東浩紀/著、幻冬舎/刊)を読んだ。

「なるほど、そうそう」と共感するところがたくさん。その中のひとつに”世界は検索ワードと同じだけ存在する”というのがあった。

Googleで検索ワードを入力すると、ほかの検索ワードまで連想してくれるから便利で、なんでも知ることができるような自由な気持ちになる。ただ、本人は自由なつもりでも、Googleが取捨選択した世界しか見ていないから、真実は逆なのだと。

世間一般では、ネットでありとあらゆる情報が手に入ることになっている。でも本当に大事な情報は見えてこない。なぜかというと、それは自分が見たいものしか見ていないからだとも。

そういえば、ツイッターでフォローするネット上のロールモデル(理想)はみせたい自分についてしかつぶやかない。

あぁ、なるほどねぇ。ぼくだって、書きたいことしか書かないし、そもそもの書くこと(記事にすること)を思いつかない。普段、つぶやくことは興味関心の範囲。どうりで世界は狭いわけだ。

言葉を知らなければ、新しい世界を知ろうにも検索のしようがない(知る術がない)はずで、だからこそ、言葉を知らなければならないのだね。

ぼくは大学時代(そんな青春もあった)特定ジャンルの本ばかりを読み漁っていた。文学や哲学書なんて指定図書で渋々購入したもの以外読んだことがなかった。文章を書くのはレポートを提出するときくらい。それが、いまこうして、書評と言いつつ、なんとも説明のしづらい気味の悪い文章を書いている。

良い悪いはさておき、その表現の基礎にあるのは、あのとき、嫌々ながらも読んで触れた文章だったと、いまさらながら思うのだ。そんな過去の読書体験があるから今のぼくがある。そこには、まだ自分の知らない言葉を知るためのヒントがたくさん詰まっていた。

言葉を知り、表現すること。続けること

文章を上達させたいなら、たくさんの書に触れ、言葉を知り、世界を拡げるべきだ。まずは、本と偶然に出会おう。最適化されたパッケージも良いけれど、それでは世界は拡がっていかない。

大型書店の書棚を、ジャンルを問わず隅から隅まで見て周ると意外な発見があるものだし、書店員の嗜好に乗っかってみるのもまた楽しい。ほかには、ブロガーが紹介する本を買ってみたりするのもいいかもしれない。ぼくはそうしている。ついでながら言うと、大手サイトより断然、個人ブログの書評のほうがおもしろいと思う。

ぼくのブックマークはこれ。

わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

(チェコ好き)の日記 旅 読書 アート いいものいっぱい 毎日楽しい

この2つは飛び抜けて面白い。話を戻そう。

つぎに自分のなかで消化し、表現する。インプット、アウトプットのどちらが欠けてもいけない。ブログでもアナログなノートでも、なんでもいい。とにかく外へ、”表現することをやめない”ことだ。それだけで、自然と文章は上達する。

最後に、物書きの感性というのは、こうした量的な訓練でこそ培われるという精神論で締めくくりたい。

世界は本の数だけ存在する。



あとがき

いまはつくづく、よい時代になったなと思う。誰でも気軽に表現できるようになったからね。でも、”読まれる”というハードルは格段にあがったよなぁと思うわけ。

誰も読まない、読まれない。そんなネットの文章は”ゴミ”だっていう。かといって、ゴミにもなりきれず、言葉にならない漠然とした何かを言葉にしようとするぼくは、ただ、布団のなかで転げまわったあげくに、天井の染みを数えて悶々とする毎日(どんな毎日だ)。そんな表現の努力を通じて、ようやくわかることだってある。冒頭の問いに戻ろう。

「文章がうまくなるにはどうしたらいい?」

「文章がうまくなるってことはもしかしたら永遠にないのかもね」

「どういうこと?」

結局、どこで、どの程度で良しとするかは自分次第なのだ。乱暴な言い方で申し訳ないのだけど、そういうことで。

-関連リンク-

「note」のなかで、なぜあなたの文章だけがほとんど読まれていないのか?

【kakujin選書】PV(ページビュー)右肩上がりなブロガーのぼくが大切にする「読まれる文章の書き方」はこの3冊から学んだ。

記事が面白くなくて悩む過疎ブロガーに足りないのって、豊かな文章表現だと思う件

ブログ記事の文章が書けなくて行き詰まったとき、ぼくがやっている簡単で即効性のある3つの対処方法

コピーライターに学ぶ、何度も読みたくなる文章の書き方

「弱いつながり-検索ワードを探す旅」(東浩紀/著、幻冬舎/刊)

ツイッターやフェイスブックの「いいね!」の数を増やすのは純粋に体力勝負の消耗戦。どういうことかというと、ネット上で注目されるには単純に露出を増やせばいい。その行き着く先はなんだろうって考えさせられる。ネットに張り付き、ブログを更新し、ツイッターでつぶやき続ける。たしかにそれが効率的だ。でもその先は?

人生のリソースには限界があって、ずっと走り続けるのは無理なんだなって思ったとき、何か別の、世界の拡げ方はないものかと悩む。そんなときに読むべき一冊。最近買った本のなかでは、ダントツに良くできている。なにより、読みやすい。


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