最高の読書 「夜と霧」

    

人生は短い。両手に抱えられる本はそう多くない。悲しいかな、読んでも読んでも、記憶からこぼれ落ちてゆく。それでも、良書と触れている時間だけは、いま、そこにあると実感できる。

美しい言葉、美しい文章、ときに笑い、ときに泣く。呼吸さえ支配されることだってある。本の世界は深淵。自分の身を投げ込んでみて、初めてその深さがわかるんだ。残念だけど、多くの人は、そういう本に出会えない。知らないまま終えていく。

自分の世界は本で拡がった。あなたもぜひ!そんな、純粋な気持ちでブログを始めたはずなのに、いつのまにやら中途半端なハウツーもののお役立ち記事や安直な記事が増えた。つまりはそういうことで、ブログのためのブログになりつつある。

書き手は書くものと信じている。それが、売ることを気にし始めると、言葉が堕落しやしないか。哲学エッセイスト、池田晶子の言葉に共感する日々。

隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(こうなんい)に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自(みずか)ら恃(たの)むところ頗(すこぶ)る厚く、賤吏(せんり)に甘んずるを潔(いさぎよ)しとしなかった。

「山月記」(中島敦/著)

山月記の冒頭を引用したのには意味がある。人喰い虎、いまだ良心が在るうちに最高の読書というものはこういうものなんだ、ということを伝えたい。

ぼくの特別ななかの一冊をおすすめしておく。それは、「夜と霧 新版」(ヴィクトール・E・フランクル/著、みすず書房/刊)である。

「夜と霧 新版」(ヴィクトール・E・フランクル/著、みすず書房/刊)

駅の看板がある―アウシュビッツだ!

この瞬間、誰もかれも、心臓が止まりそうになる。アウシュビッツと聞けばぴんとくるものがあった。あいまいなだけにいっそうおぞましい。ガス室や焼却炉や大量殺戮をひっくるめたなにか!

列車はためらうようにゆっくりと進んだ。そう、まるで自分が運んできた世にも不幸な人間という積み荷をおもむろに、そしてなだめすかして現実の前に立たせようとするかのように。

そうだよ、ここはアウシュビッツだよ、と。

アウシュビッツと聞けば誰もがわかる。アウシュビッツ(大規模収容所)がナチスドイツの民族浄化、いわゆるホロコーストの表舞台だとすれば、「夜と霧」で語られるのは、その支所(小規模収容所)でのこと。じつは、こういう支所のほうが、悪名高い絶滅収容所であったことは、あまり知られていない。

人びとは、夜陰に乗じ、霧にまぎれて貨車に載せられ、いずこともなく連れ去られていった。移送につぐ移送。着いた先で待っているのは、最初の選別。ここで9割が選ばれる。”選ばれた人びと”は、駅のプラットホームから直接スロープをくだり、入浴施設に向かう。建物のなかで石けんを受け取り、一か所に集められる。ここは入浴施設とは名ばかりの、実際は焼却施設なのだが。

ほどなくして煙突からは数メートルの高さに不気味な炎が吹き出し、真っ黒な煙となってポーランドの暗い空に消えていく。

あまりに悲しい結末ではないか。選択などできない。ただこうして、消されるだけ、翻弄されるだけの人生である。運命だったといえばそれまでだが、生きる意味とは何かという強烈な問いかけがある。

生きる意味を見出している人間は苦しみにも耐えることができる、という。でもね、苦しみに耐えたところでその先にあるのは無なんだよ。灰、灰、灰。

やっぱり、生きることに意味なんてないんじゃないか? ガス室におかれて、この先に焼かれて灰になるとわかっていて、生きることに意味があった、と自分なら最後まで思えるだろうか。

思えるわけない。恨み、つらみ、嘆いて、そうして諦める。

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光は暗黒(くらき)に照る

3.11の東日本大震災の翌月すぐに、ぼくは医療のボランティアとして震災の地に行くという経験をした。

「行ってくれますか?」「わかりました」

もう、”行くこと”が決められていた。

なんでぼくが、なんで。繰り返し頭のなかを巡る。彼女(今の嫁)になんて言おう。そんなことを思った。あれは断ることもできたのだろうか? いまとなってはわからない。

東京駅八重州口の集合場所で「念のため」とヨウ素カリウム丸を渡される。あぁなるほど、被曝するかもしれないのだなと。漠然とした不安が湧き出て、すぐに消えた。自分でも笑ってしまうほど冷静だった。

著者は言う。生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた、と。

著者の心情を程度の差こそあれ、追体験したと思っていたのだけど、よく考えてみると、ちょっと違う。

精神医学では、いわゆる恩赦妄想(おんしゃもうそう)という病像が知られている。これは死刑を宣告された者が処刑を土壇場で免れると空想し始めることをいう。希望にしがみつき、最後の瞬間まで事態はそう悪くないだろうと信じるのだ。

つまり、どこか楽観的だった自分がいた。自分だけは大丈夫だと心のどこかで思っていた。じつは、覚悟なんてなかったんだよ。しょうがないというあきらめ。それでも、やれることは懸命にやろうと思っていた。

結局、何事もなく無事に帰ってくることができた。実際に被災している人は、終わりが見えなくて、ぼくには終わりが見えている。外に雪が舞うなか、同じ冷たい床に寝ていても、終わりがあるのとないのでは、ずいぶんと受け止め方に違いがあるはずで、薄く浅いと言われたら、やはりそうなのだろう。

では、すべてが無意味だったかというとそうではない。この経験で学んだこともある。それは、内面が深まると、芸術や自然に接することが強烈な経験になるということ。

光は暗黒(くらき)に照る

車窓から見た、神田川の満開の桜。海で見た、刻々と色を濃くしていく夕焼け。

あるいは。

見上げた、雨上がりの空。

雨の降る日曜は人生について考えよう

なんてことはない光景なはずなのに、どちらも息をのむほど美しかったんだ。

あとがき

脆弱(ぜいじゃく)な人間とは内的なよりどころをもたない人間だという。脆弱なこころのまま、堕落に甘んじるか、あるいは拒否するか。運命は、時々刻々と選択を迫ってくる。

ぼくは運命論者なのか、というとそうでもない。実存主義的な立場におおいに共感している。だから、自分がどのようにあるべきか、そんなこと頭ではわかっている。

ではなぜ、こんなことを言うのか。それは、著者が体験したような人生の極限状況において、あるべき選択、あるべき行動をとれるかどうか、自分にまったく自信がないから。



―関連リンク―

3.11 あの頃といま

最高の読書とは何だろう。人それぞれ答えはあるが、この一冊はあなたの読書に対する価値観、姿勢を根底から覆してくれる本だ。四の五の言わずに読めば分かる本。


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