ジェーン・スーのエッセイって味の素(化学調味料)みたいな、わかりやすい味付けの文章だよね。

    

「山月記」(中島敦/著)や「走れメロス」(太宰治/著)のような文豪の書く文章は、味わい深く、読んでいて楽しい。ところが、これを現代のブログの文章に盛り込むのは、やってみるとわかるのだけど至難の業である。よくて、ちょっとした引用で読書遍歴をひけらかし、「読書ってマジ素晴らしいな!」くらいの質の低い使い途(みち)しか思いつかないから困る。

何かの本で、文章のレゾンデートルというのは”読まれること”であるといっていた。

※レゾンデートル 存在理由または、存在価値と訳される。他人と比較した相対的な存在価値ではなく、主に自分自身が認めた、自己完結型の存在価値のことを指すようです。

「そう、そう」と共感した覚えがある。ところが、よくよく考えてみるとぼくの思う”読まれること”とは別物だった。というのは、”読まれる”というその一点においては共通しているのだけど、ぼくの場合他者との比較優位性に根ざした存在価値を根底に書いていたからだ。

そりゃ、ぼくだって(本来の意味の)レゾンデートルに生きたいとは思うのだが、ブログで文章を書くからには、目的があって、その実現のためには読まれなければならぬ。承認欲求だって満たしたい。そうなると、どうもそのような高尚な考えは潜在意識の奥底に追いやって、見なかったことにしてしまうらしい。

というわけで、必要に迫られ、純文学の読書とは別に、自分の目指す文章(ブログでウケそうな文章)を書く作家を手当たり次第乱読するようになった。

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書店では、まず最初に新刊のエッセイ本コーナーを物色することにしている。

あるとき、立ち寄った書店でたまたま手にとったのが、「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」(ジェーン・スー/著、幻冬舎/刊)という新刊エッセイ。これは三十路毒女(独身女性の隠語)の心情を綴ったエッセイ本である。

まず気になるのは、ペンネームからくる、その素性であろう。話題から察するにおそらく日本と関係のある日系ハーフみたいなのを想像していたのだが、あっさりと打ち砕かれた。

ジェーン・スーは日本人です。

外国人が割引されるホテルに、外国人のふりをして宿泊した時に使った偽名を芸名にしたということらしい。一見無用な知識も、本を読み進めるうえでの大切な味付けになる。

ともかく、話を進めよう。

ぼくが、文章に求めるもののひとつに、他人が世界をどう切り取って表現したか? というものがある。

この本のテーマをひとことで言うと、「30代独身女子のあれこれ」で、あれこれ日常に関する思索を書いているだけなのに、文章表現やテーマの切り口で、飽きさせずに読ませてくれる。

以下の引用文を読んでほしい。

SNSに載る女子会がフレンチビストロで行われるならば、海賊の宴会はスペインバルで行われます。働く女どもは、脂浮きした化粧に昭和のおっさんのような疲労感を漂わせ、とりあえずアホのようにワインを空けていく。ひとり一本は空ける。誰も聞いてないのに「今日は飲む」と宣言する。

一時間後には「ガチャピンのTシャツで寝るようになってから彼氏とセックスレス」など品のない話に花を咲かせ、互いを罵(ののし)り、労(ねぎら)い、ゲラゲラと笑いながら、さっき自分で仕留めてきた獣でも見るような目つきで、バーカウンターの上のハモンセラーノの塊を睨みます。

スペインバルなんて小洒落たところには行かない猛者たちは、のれんのかかった居酒屋に集合です。芋だの麦だのからスタートし、挙句日本酒の飲み比べまでして馬刺しをつまみ「ちょっ、なっ、これオーイシッ、おーいし!」と突然テンションを上げ、またすぐまったり。「いいお酒は明日に残らないのよねぇ~」と言いながら、貯金残高の少なさ自慢や、親との拗(こじ)れた関係などを吐露し合う。

(中略)

SNSに載る女子会が女性性の指差し確認ならば、SNSに載らない女子会は、女装ショーの楽屋打ち上げ。SNSに載る女子会が女の戦ならば、SNSに載らない女子会は、戦のあとの宴。

兜の緒を締めたり緩めたり、女の集いはどちらも楽しい。

両女子会に共通しているのは、食べ物が美味しい店で開催するということでしょうか。男性が適当に決める店って、酒は安いけど食べ物がイマイチ……というのがよく聞く声ですので、そのあたり気を付けると男性はモテ度アップする可能性若干アリかと存じます。

まぁ、この手の女たちにモテたいかどうかは、別の話ですが。

『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』 – 女子会には二種類あってだな」より

ページをめくるたび、メタファーの多様さ、豊かさに舌を巻く。巧みな描写に「ほー、そうきたか!」と膝を打つ。この書き手はじっくり考え、意味深く言葉を組み立てて書いているのだなあと感じる。

本のタイトルから、女性性(女性らしさ)へのアンチテーゼを想像するかもしれない。それについては読み進めてみるとわかるのだけど、「じつはわたしも永遠の女子だったよ、てへぺろ」みたいな内容に着地する。穿(うが)った読み方をするならば、自らの女性性をも認めて和解(アウフヘーベン)していると言えば適切か。



「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」(ジェーン・スー/著、幻冬舎/刊)

さて、食わず嫌いだったものが、食べてみると意外とおいしかったというのはよくあることで、ブログをきっかけに、こうした新し目のエッセイにも手を出すようになった。

純文学の文章が、天然無添加のしみじみとした味わいであるなら、こういった本は、味の素(化学調味料)を振りかけた、わかりやすい味付けの文章である。どちらが良いとか悪いとかの話ではない。

文豪、太宰治は私生活で味の素を振りかけるのが好きだったというではないか。なにより、元がまずい飯にいくら調味料を振りかけたところで美味しくはならないのである。

読書は雑食であるべきで、ときに悪食くらいで丁度いい。あれは読むけど、これは読まないといった、偏りがよくないのだ。

では、その適切な配分は、いかほどか? そんなもの訊かれたって答えようがない。君の好きなだけ読みたまえ。

-関連リンク-

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