完璧な文章は存在するか? 村上春樹の「風の歌を聴け」

    

「風の歌を聴け」(村上春樹/著、講談社/刊)

いまさらながら村上春樹の「風の歌を聴け」を読んだ。それもハードカバーで。

本の重み、しっかりとした装丁が小説然としていてすばらしい。中身も、行間が詰まっていないからだろうね、軽快な文体によく合っていた。

ハードカバーって文庫に比べて値段が高い。それなのになぜハードカバーなのか? それは最初の第一印象、ファーストインプレッションがとても大事だと思うからさ。

人って”認知的不協和”を避ける生き物なんだよ。高かったのに失敗したと思いたくない。だからあえて、高いハードカバーを購入して「素晴らしい読書だった」、とバイアスをかけることができる。

村上春樹の作品を避ける人は、ベストセラー作家に阿(おもね)ることを良しとしない人。村上春樹が苦手で、避け続けてきたぼくのような人間には、これくらいの自己暗示が丁度いい。これでたいていのことはよく見える。

‥‥‥だけどね、天が落ちてくる、ありえないよね。ありもしないことを、あれこれ心配することを杞憂というんだ。

そう、そう。知ってるよね。やっぱり杞憂だったみたい。

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「風の歌を聴け」は村上春樹のデビュー作。「風の歌を聴け」にでてくる文体はたとえるなら、イラストレーターわたせせいぞう(古い?)の描く舶来のモダンな風景で、読んでいるとどこか憧憬にも似た淡く切ない感情がこみ上げてくる。

村上作品全般に言えるのだけど、ストーリーは難解で、二重構造のいわゆるメタ小説。なのに流れるように読めてしまうのは文章のリズムが抜群によいからだろう。

文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことが失くなった時、文明は終わる。パチン‥‥‥OFF。

自分のこれまでの書評を振り返ってみて思うのは、つくづくぼくは抜き出された一片の「文章」に魅力を感じているのだな、ということ。

良い読書には必ず良い文章との出会いがあった。たとえばひとつの”完璧な文章”さえあればそれだけで、もう十分すぎるくらいに文学的トリップ(旅)を楽しめた。

本で旅にでるには、村上春樹の「風の歌を聴け」はうってつけだと思う。ページを捲(めく)り、流れては消える舶来の風景を眺めていればいい。そうして時折、絶景(完璧な文章)が現れて、ハッと息を呑む。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。

しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。

経験則からいえば、完璧な文章は存在する。完璧な絶望が存在しないのならなおさら、と思う。なぜかというとそれは、どんなに絶望的な状況でも、少しの希望があるってことなのでしょう? 逆説的に完璧な文章が在るってことの証明なんだよ。きっと。

完璧な文章を書こうとして、しばしばぼくは絶望的な気分になる。完璧主義は禍(わざわい)でしかないというけれど、たしかにそうだ。慎重な事前読書と考える時間をかけたのに、気付いてみたら一行も書き進められていなかった、なんてざら。

ほんとうは買った本をただひたすら読むだけの人生がいい。

パチン‥‥‥OFF。




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