あなたが絶対にチョイスしない一冊。デカルト「方法序説」解説。

    

「方法序説」(ルネ・デカルト/著、岩波書店/刊)

「方法序説」(ルネ・デカルト/著、岩波書店/刊)は近代哲学の出発点とも言える書。(本の厚さが)薄いと侮って読み始めると意外に難解。

肝心の内容のほうも正直に言うと面白くない。なぜかというと抑揚の少ない堅い文章が延々続くからだ。面白くもなく堅い文章に辟易するのに、なぜとりあげるかというとそれはね、あとからじわじわと効いてくるからなんだ。

「最近の本? ライトノベルです」な人には一読するのさえ苦痛だろうね。でも、食わず嫌いはもったいない。どんな本なのか少しでも伝わるように書いてみるから、この記事読んでから判断しても遅くないと思う。

この本は全6部からなる。重要だと思われる2~4の論旨を、超訳まぜながらさらっとなぞってみよう。

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2部 いわゆる炉部屋での思索

当時23歳だったデカルト青年は、旅先の暖房の効いた暖かい部屋(炉部屋)でひとり思索に耽った。いわゆる”炉部屋の思索”である。ここでは、そのときに浮かんだ具体的な思索の方法について述べている。

  1. 速断と偏見を避ける。自分で正しいと納得できないことは受け入れてはいけない。
  2. 難問は細かく分割して考えると良い。
  3. 物事は簡単なものから始めて、階段を登るように複雑なものへと進むと全体の理解が深まる。
  4. 最後に、見落としがないか十分注意しよう。

根底にあるのは疑うという姿勢。あらゆるものを疑いの姿勢で見ることだ。デカルト以降、この”疑う”という行為は科学的な思索の基準として用いられてきた。

ビジネス書などで見かけるフレームワークの原型がここにあるのではないかな。ついでながら言うと、1~4は順に「明証」「分析」「総合」「枚挙」と呼ばれている。

3部 思想の建て直し

思想は家と同じで、デカルトにとってなくてはならないものである。デカルトは自分の思想をすべて捨て去り、根本から建て直そうとしたのだけど、建て直しの最中でもとりあえずの仮住い(思想の拠り所)は必要だと考えた。そのことについて述べている。いわばデカルト自身の暫定規則のようなもの。

  1. 良識ある人の意見に従う。その中でも、極端な意見よりは穏健な意見を採用する。
  2. とりあえず迷ったら、もっともな意見を選ぶことにした。あとで意見をころころ変えないようにしよう。
  3. いまの状況を受け入れろ。高望みするな。そうすればラクになる。
  4. 納得できる最良の仕事を選ぶべきである。

補足3:高望みするから、現実とのギャップに苦しむ。たとえば握手会のあとのアイドルは手を何度も洗い、念入りにアルコール消毒しているぞ(たぶん)。握手会に通っているうちに、もしかしたら・・・なんて考えてはいけない。現実を受け入れるんだ。

補足4:世の中の仕事を俯瞰したところ、自身の仕事が最良の仕事だったと述べている。

4部 わたしは考える、ゆえにわたしは存在する

自分を含めた、世界は本当にそこに在るか? 在るというならどう証明できるのか?

人は見えないものを見てきたし、これからも見る。それは古今東西、怪談話に事欠かないことからもわかる。脳はありもしないものを見てしまうのである。昔話で狐や狸に化かされたのは一度や二度ではないだろう。

1999年に公開されたアメリカのSF映画「マトリックス」を覚えているだろうか。キアヌ・リーブス演じる主人公のネオはレジスタンスの一員のモーフィアスに言われた。「貴方が生きているこの世界は、コンピュータによって作られた仮想現実だ」と。

「われ思う、ゆえにわれあり」は、デカルトの有名な一節だ。

この言葉、要は疑え! であり、それも徹底的に、ということである。たとえば目の前に見えているからといって、そこに在るとは限らない。存在証明に挑め。なぜならそれは狂人(あなた)の妄想かもしれないし、一生醒めることのない悪夢かもしれないからだ。

デカルトは熱心な宗教家だったことが知られているが、また有能な科学の探求者でもあった。この本が書かれた当時は、天文対話で、コペルニクス(地動説を主張)を支持したガリレオが、ローマで裁判を受けるような、宗教が絶対の価値観とされる時代である。

科学もへったくれもない世界である。宗教的価値観をベースに、ものごとのすべてを判断するのだから矛盾だらけ。

熱心な宗教家であるデカルトは、まさか宗教的解釈のほうが間違っているなんて思いもしない。間違っているのは、自分の科学的な解釈ではないかと判断したのだろう。

彼は、研究に対する科学的理解と宗教的な解釈との間に生まれた矛盾をなんとか解消しようとしてあらゆるものごとを徹底的に疑うようになる。

当時の科学は視覚や聴覚など五感に頼っていたので、仮に科学の結果が宗教的価値観に照らし合わせ、間違いということであれば、あとは自分の五感を疑うしか残されていない。

自分の感覚を疑うということは、自分が何者かを疑うことである。

ここで、デカルトは気付いた。

疑うということは、そのように考える何者かが必ず存在している。なぜなら、そう考える者がいなければ「疑う」という行為自体が成り立たないからだ。

いまここで「疑う」ということをしているのは紛れもない「私(デカルト)自身」である。ゆえに、私は存在するのだ、と。



あとがき

こういう古典の読書に慣れていないと、いちいち読んでいて立ち止まることになる。うっかりしていると、たいして咀嚼もせず、ページだけめくっていたということになり、読後に振り返ったときに何も得られていない自分に唖然とする。その敷居の高さ、まるで険しい山の登山のよう。

登山なら頂上があって、なにかしらの登り切った(読みきった)という感慨を得られるものだけど、このあたりの古典はそうもいかないから困る。

頂上からの景色を眺めたくて、ひまを見て何度も登っているのだけど、いまでもすっきりとした景色は見ていない。それは、これほど賞賛されるには、より深遠な何かがあるに違いないと疑ってかかっているのが原因か。

正直あたりまえで、一見面白くもなんともない本ではあるのだけど、著者の時代背景とか(著者の)研究対象だかの関連知識を得てから挑むとまた違った景色が見られるのはたしか。たかだか数百円の文庫でデカルトの思想が手に入るのだから挑戦する価値はある。

―関連リンク―

旅に行くデ!出発ゃ!作家ではなく、旅人としての開高健(かいこうたけし)の魅力を全力で伝えてみる。


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