「安倍構想」とか「集団的自衛権」について、よくわからない?教えてやるからちょっとこっち来い。

    

先日、Google+というSNSで+takahara kouさんが新聞の”集団的自衛権”の記事について話題にあげていた。

投稿にはコメントがかなり寄せられて、議論が予想以上に白熱していたことに驚くとともに興味深く読ませてもらった。

いまあなたが、文化的で安全に暮らせているのは良くも悪くも日米安保という傘の下にいるからなのは否定できないと思う。誰が傘を差すか?という議論はあるだろうけど、米国以外にはいまのところ考えられない。

たしかに、軍事評論家の田母神俊雄氏が言うように、自分で傘を差すという選択肢もあるね。いずれはそういう選択肢も考えなければいけない時が来るのかもしれない。ただ、現状の日本が抱える安全保障問題を考えたときに、日米同盟は切っても切り離せないと思うのだ。

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ぼくも、この話題は、わかったつもりでいたのだけど、実はよくわかっていなかった。単純な二元論に収まらない気もするけど、良い悪いを議論するまえに最低限の知識を一緒におさらいしておこう。

安倍構想-国防軍の創設

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2013年12月に発足した安倍晋三内閣は、憲法を改正して自衛隊を軍隊と位置付け、「国防軍」へと変える構想を表明した。さらに、交戦規定(戦闘のルールで軍隊であれば、どの国にもあるもの)まで決めたい考えだ。

これが安倍構想である。しかしながら、一国平和主義の日本では、こうした政策はアレルギー反応が強いのはご承知のとおり。

憲法改正論議

憲法96条によると憲法改正のためには、衆議院と参議院それぞれの議員の3分の2以上の賛成が必要だ、とある。その上さらに国民投票まで必要だ。安倍構想の実現は困難というかもう無理な話なのだ。このままでは、できるわけがない。

では、どうしたものかと考えた場合に憲法を改正するハードルそのものを下げるということを思いついた。これは憲法第96条を改正することで実現しようとしている。

具体的には3分の2以上の賛成が必要な条項を、”衆参過半数”の賛成で可能にすることだ。これにより憲法の改正が比較的容易になるという。

話題のキーワード、「集団的自衛権」とは?

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「集団的自衛権」というのは同盟関係にある他国が攻撃されたら、自国が攻撃されたものとみなして同盟国とともに武力を行使できる権利のことだ。これには、自分の国が攻撃されていないということが前提。対して自国が攻撃されている場合に自ら防衛するために闘う権利を「個別的自衛権」という。

ここで勘違いしてはいけないのは、集団的自衛権はあくまで”権利”であって義務ではないということだ。武力行使を行うかどうかというのは、”時の総理が国益を考えて最終的に判断を下していくもの”なのだ。

アメリカの行う戦争に追随しなければいけないかと言われれば必ずしもそうとは限らない。これは過去のベトナム戦争やフォークランド紛争に対するイギリスやアメリカのとった立場をみればわかる。集団的自衛権の行使が容認されたからといって、同盟国が始めた戦争に無条件に参加しなければならないというわけではない。

だけど、ここが肝心。理屈ではそうなのだけど、もし地球の裏側でアメリカの始めた戦争に追随するのが国益に適うと判断すれば、追随することになるだろうし、そうならないことだってある。結局どうなるかわからないのだ。日本の理屈なんて大国の都合でどうにでも曲げられてしまうものだから。

安倍総理は著書「この国を守る決意」(安倍晋三、岡崎久彦/著、扶桑社/刊)でも述べているように双務性を高めたイコールパートナーを目指している。それは「集団的自衛権の行使容認」のことを指す。

だから、ちょっとこれは考えにくいのだけどという前置きさせてもらおう。

もし仮にアメリカの第7艦隊が攻撃されていたとして助けなかったとしようか。アメリカが日本に失望するような事態に陥いることは間違いないね。そうなると安保条約の破棄が通告されることになるだろう。さて、1年後の日本はどうなっているのだろうね。想像すると恐い。

日本が自立して自由に歩いていくには、それこそ日本の海に戦略核を持った原潜でも沈めておくくらいの用意周到さが必要だ。そうでもしなければ、近隣国の恫喝や「ニュクリアブラックメール(核の脅迫)」に簡単に屈してしまうことになるのは想像に難くないからだ。

その実現のためには非核三原則は放棄しなくてはならないだろうし、NPT条約(核拡散防止条約)からも脱退しなきゃいけない。それはパックス・アメリカーナ(アメリカの覇権)の崩壊を意味する。

あと、北朝鮮については核の抑止なんて言葉は通じない。実際には核の抑止効果というものは常に成立するわけではなくて、失う物がない者にはまったく意味がない。

話が逸れてしまったので戻そう。

この国際法(国連憲章51条自衛権)の上ではあたりまえの集団的自衛権だけど、日本の歴代政権はこれまで”憲法の規定上行使することができない”という立場をとってきた。その憲法の規定というのが、安倍晋三内閣が変えようとしている憲法第9条第2項のことだ。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

集団的自衛権の行使容認

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安倍政権は支持率が高いうちに集団的自衛権を”実際に使えるようにしておきたい”と考えていると思う。憲法改正の手続きはとても面倒で大変だ。これを簡単に実現性のあるものにするには、憲法の解釈自体を変えてしまうのがてっとり早い。

こうして、憲法第9条第2項の改正の手続きをとらないで、憲法の解釈を変えることを閣議で決定する「集団的自衛権の行使を容認」する流れができた。

安倍晋三首相は5月15日に記者会見を開き、集団的自衛権の限定的な行使容認を視野に、与党協議を進めていくと述べた。安倍首相は「アメリカとの関係によって日本の平和が保たれている」として行使容認に意欲を示しており、行使容認に慎重な公明党との協議を進め、憲法解釈の変更が必要と判断されれば閣議決定を経て国会に諮る方針だ。

■限定的に行使容認の方向で検討へ

記者会見は、同じ日に安倍首相自らが設置した有識者会議(安保法制懇)からの報告書提出を受け、国家安全保障会議(NSC)の4大臣会合を経て開催されたもの。

報告書では「我が国の平和と安全を維持し、地域・国際社会の平和と安定を実現していく上で、従来の憲法解釈では十分対応できない状況に立ち至っている」として、集団的自衛権の行使を容認すべきだと提言がなされた。

安倍首相は会見で、報告書の「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるというとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許される」という考え方について、内閣法制局の意見も踏まえて研究を進め、また、同時に与党協議を始めると述べた。

そのうえで、現在の政府の憲法解釈を変更すべきだとした場合、改正すべき立法措置について閣議決定を行い、国会に諮るとした。

集団的自衛権、限定的行使容認へ 安倍首相は憲法解釈変更に意欲

限定的な集団的自衛権の行使(15事例)についての与野党協議が始まる予定。こちらの記事を参照してほしい。

米艦防護を4分類=安保法整備の15事例判明-集団自衛権

自衛隊は戦争をする軍隊になる

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安部首相は、「集団的自衛権の行使容認」という日本の安全保障政策の転換を推し進めようとしているが、これは言ってみれば、将来的に自衛隊が戦争をする(好戦的という意味ではない)軍隊になるということでたぶん間違いがない。

これが嫌だからといって一国平和主義のままでいられるかというと、東アジア周辺国の活発な行動を目の当たりにすると、そうも言ってられない状況になっていくことが容易に予想できるから困るのだ。

よくある主張が「おまえに血を流す覚悟があるのか?」というものだけど、一般人にそんなものがあるわけもない。あなたもそうでしょう?

集団的自衛権を行使する、とはとりもなおさず戦争をしていくことであり、もしそれが国際貢献、21世紀における「積極的平和主義」だから日本の進むべき正しいあり方だとしたとする。しかし、ならばこそ拙速に国民的討議もないまま安倍政権と与党だけで突き進んでよいものか。国民にその覚悟はあるのか。いや、そもそも「集団的自衛権の行使」、解釈改憲とはどういうことかわかっているのか。(中略)

きみは殺し合いのリングに上がる勇気と覚悟はあるか。戦争が始まって戦地に行くのは、安倍や石破や高村氏ではない。彼らは勝手に決めるだけでその責任はとらない。戦争が始まれば行くのは若い健康なきみたちなのだ。
また、青少年の子をもつ親たちは我が子を戦地に送り出す覚悟はあるか。生み育てた子を戦争でなくす覚悟はできているか。戦争ができる、戦争をするということはそういう事態なのである。今、そういう時代が来る瀬戸際。よく想像してほしい。

ー引用終わりー

「ブックカフェ 「無頼庵」日録~あなたと本と音楽を」というブログの記事からの抜粋なんだけど、読ませる文章がうまいなぁ。ここ面白い。記事本文こちらからどうぞ。

若者よ、戦地に行く覚悟はあるか

人は誰しも心のどこかで自分が世界の中心だと思っているもので、いつも自分だけは”特別”だ。自分の見たり触れたりする世界がすべてで、それ以外の世界は存在しないのだから(あたりまえだ、知らないのだから)目の前に広がる世界がすべてのように錯覚してしまうのも無理はない。

そんな”特別な自分”に、血を流すような不幸が訪れるなんてことは、まったく想像ができない。覚悟しろと言われても、その状況に陥るまで覚悟なんてできっこない。

あなたは臆病か暴力どちらを選ぶ?非暴力主義で有名なマハトマ・ガンジーはこれに答えている。さて、血を流す覚悟があるのか?という問いに、もう一度考えてみよう。

やっぱりそんなものあるわけない。だけど、対話や友愛なんて文学表現で包んでみたり、無抵抗主義を訴えてみても事態は何も解決しないと思うのだ。

平和主義は必ずしも平和な未来を約束しない

アメリカの軍事力に頼ることで自由と繁栄を享受してきた日本人はどうやら平和ボケしてしまったらしく、「自衛隊は違憲で軍備を放棄すべきだ」などと真面目に主張する人がいる。これは、強盗に入られても無抵抗を貫けば、万事解決すると主張しているのと同じで、たいてい、そう現実は甘くないはずだ。

平和主義で、たとえば話し合いや譲歩で戦争を回避できるかというと、まったくそんなことはないというのが、第二次世界大戦時のイギリス首相チェンバレンがとった宥和(ゆうわ:寛大に扱って仲良くすること)政策の結末という歴史で証明されているように思うのだけどなぁ。

日本の安全は、ならずもの国家の北朝鮮や覇権主義の中国のために日米安保がなければ成り立たない状況になった。そろそろ、一国平和主義を止めて本気で日本の安全保障政策について議論をしなければいけない時代に来ていますよねという話。

尖閣諸島だって、反撃の意志と能力を見せなかったら守れるはずがない。「自国の領土を守る意志がないのに、なぜ自分(アメリカ)だけが血を流さなきゃいけないのか?」とぼくがアメリカ国民ならそう考えると思う。

そんな離島、放棄してしまえばいいという人もいるけど、それで満足する相手じゃないのはわかりきったことで、譲歩に譲歩を重ねて最終的に戦争になったというのでは笑えない。

「戦争は良くない」

この日本では、あたりまえとされる共通理解なのだけど、現実的な手段でどう戦争をしないで済むのか”考えることを止め”、ただそれだけを声高に叫ぶのは無責任というものだろう。

不安を煽るだけなら大衆扇動となんら変わりがない。そうならないようにとにかく知ろう。そして、知ろうと努力し続けようと思う。



あとがき

「この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義」(池上彰/著、文藝春秋/刊)

ゲーム理論でよく引用されるのが、ロバート・アクセルロッドの「囚人のジレンマ」という協力と裏切りのゲーム繰り返しの実験の成果だ。

最終的に良く機能した戦略は「しっぺ返し戦略」というものなんだそうだが、その科学的知見から導き出される最高の安全保障戦略はこういうものらしい。

  • 平和主義の宣言
  • 攻撃を受けた場合は徹底して反撃
  • 相手が撤退したらそれ以上深追いはせず、平和条約を締結する

集団的自衛権を議論する前にやるべきことがある

これは、まさに戦後日本の政治家がとってきた戦略だ。いやぁ、歴史って最高にエキサイティングでワクワクするなぁ。

ほか、学校では教えてくれない「日教組」(宗教じゃありませんよ)、学生運動といえば東大安田講堂での攻防戦などなど、知識欲が刺激される本。もっといろいろ知りたくなりました。

2004年出版と古い本ですが、読んでおいたら安倍構想の理解が深まると思います。この本は共著と言う形で、もう一人の著者、岡崎 久彦氏は私的諮問機関「安保法制懇」のメンバーでもありますね。

池上彰さん解説の「戦後史」。現代に通じるところもあって、興味深い。たとえば、日中間で緊張が高まっている尖閣諸島周辺問題について、米国は「尖閣諸島は日米安保が適用される地域だ」と繰り返しコメントしていますが、有事の際に必ず守ってくれるという保障はまったくないことを知っていますか?


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