記事が面白くなくて悩む過疎ブロガーに足りないのって、豊かな文章表現だと思う件

    

青春時代はポケベルやパソコン通信の時代だった。いまでは、遠い過去の記憶。

世の中とても便利になった。SNS(ソーシャルネットワークサービス)で、見知らぬ誰とでも気軽に繋がれる。それが、あたりまえの時代。でも、”自分のことば”で気持ちを伝えることは、絶対になくならない。

いまのあなたの記事は読まれているだろうか?

「物語のある広告コピー」(パイ・インターナショナル/刊)

コピーライターの書く文章が好きだ。駅で、テレビで、ネットやスマホでも。

いたるところにキャッチコピーが溢れている。なんだかなぁ、と思うものからこれいいなぁ!と思うものまで溢れている。

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キャッチコピーには一瞬でこころを掴んでくるものがある。ボディコピーの中には物語を持つものがあって、文章は短いのにぐいぐいとその世界観に引き込まれる。良いものは心に残るし、何度でも読み返したくなるものだ。

対して、なんとなくのキャッチコピーは、さして読まれないまま次から次への大量のコピーに埋もれて消えていく。これってブログの記事と一緒じゃないか?

たいていの場合、ブロガーは書くことで成り立つ。最初の頃は、浅い、なんとなくの記事でもいい。書くことを続けることが目的だからだ。でもどこかで自分を客観視して現実を見ないと辛くなる。

いまのあなたの記事は読まれているだろうか。

「物語のある広告コピー」(パイ・インターナショナル/刊)はそんな悩みを持つブロガーにとっての豊かな表現力とは何かを教えてくれる。そして、書くこと、伝えることのヒントが溢れていると思う。

物語のある広告コピー

「物語のある広告コピー」(パイ・インターナショナル/刊)

「日本一おいしいうどん屋」

むかしむかし、あるところに日本一おいしいうどん屋があったとさ。
でも、その”あるところ”がわからなかったので、だれも食べにこなかったとさ。

(おしまい)

これは名古屋広告業協会のポスターだ。「誰も知らなかったら、無いのと同じ」という、あたりまえの現実を教えてくれる。

何かを、誰かに伝えようとしたとき、人は表現する。良いものを書いたって、誰にも読まれないというのでは悲しい。

それでもいい、たしかにそういう価値観はあるだろうけど、それならネットの文章でなくてもいいはずだ。EverNoteでも、Wordでもアナログな日記でもいいのに、なぜネットで文章を書くのかと考えるとその先には読まれることが目的にある。

表現したい。読まれたい。そして認めてほしい。そういう思いから逃げちゃいけないと思うのだ。だから、ぼくは読まれるように文章を構成するし、努力する。そのときの持てる限界まで文章を練り直す。良い文章には良い読者がつくものだ。それは新しい読者の呼び水となる。

だから、今読んでくれる読者一人ひとりを大切にしようと思う。

SEOなんてよくわからないけど、うまくいく。サイトのデザインとかUI(ユーザーインターフェイス)にこだわるのもいいだろう。でも一定の水準があれば、あとはそんなものに時間を費やすより、もっと大事なことがあるはずだ。それは、言葉を尽くして記事を書くということなのだと思う。

 「物語のある広告コピー」(パイ・インターナショナル/刊)

『人生がラブストーリーでありますように』

「合格しなければいいのにな」と、ふと思った。東京の大学を受験する「彼」と、地元にとどまる私。受験日直前のバレンタインデー。映画のように「好きです」なんていえるはずはなかった。

そのかわりに、チョコレートと「ガンバってね」という言葉を贈るのが精一杯だった。「彼」は背中でピースサインを返した。

ふたりは結局、別々の志望校に進学した。たった一枚のチョコレートが人生を変えることがあるなんて、思いもよらずに。

あれから24年。

私に再び、あの時と同じ気持ちでチョコレートを贈る日がめぐってきた。遠く離れた大学を受験する息子に。

「チョコレートに困ってなんかねぇよ」と、おどけるわが子。「ガンバってね」という母親の言葉に、背中でピースサイン。

あの日の「父親」にそっくりだった。24年前のピュアな私が、そこにいた。「合格しなければいいのにな」と、ふと思った。

山田 尚武(やまだ ひさむ)

人生がラブストーリーでありますように。ぼくの人生もそうありたい。経験した人もそうでない人も誰もがラブストーリーと聞いて抱く感情がある。

年をとって、失っていくものはあるけど、変わらないものだってある。そんなピュアな感情に触れた幸福感を思い出させてくれるようなボディコピー。

コピーって誰のものって考えたときに、博報堂クリエイティブディレクターの原田 朋(ともき)さんは”読んだ人のもの”だと言っている。

「これ、自分のことだ!」と共感できるようなコピー(文章)がいいコピーなんだと。コピーに限らず、ブログメディアを作るうえでも、なるほどと思わされますよね。

「物語のある広告コピー」(パイ・インターナショナル/刊)

あした、
なに着て
生きていく?

同じ笑うのなら、好きな服着て笑いたいから。
同じ泣くのなら、好きな服着て泣きたいから。

あした、なにかを楽しむのなら、好きな服着て楽しもう。
あした、なにかをがんばるのなら、好きな服着てがんばろう。

さあ、わたし、
あした、なに着て生きていく?

日常何気なく、やっている。服なんて何着ても同じ。でも、どうせなら好きなモノ(服)に囲まれていたいし、そのほうが幸せな人生だ。そこには「生きる」ということの気付きが含まれている。

ぼくらはただ、食べて寝ていつか死ぬ。何かをやり遂げて、永く人の記憶に残るかもしれないけど、多くのひとは100年もすれば存在したことさえ、みんなの記憶から消えてしまう。それは、もっと早いかもしれない。人生なんて言ってしまえば無意味なのだ。

でもそんなこと考え抜いた先には狂気しか待っていない。

「生きる」ってことは無意味なことに意味を見出す行為の積み重ねだと思う。

さぁ、あした何しよう。

「物語のある広告コピー」(パイ・インターナショナル/刊)

フツーの生活は、たくさんのフツーのコトバたちでできている。 たとえば、誰かと、何かおいしいものを食べたとき、グルメレポーターみたいなひねったコトバは必要ない。 おいしいから、「おいしいよ」。

フツーのコトバが、いちばん伝わる。

最近、他人のブログを読んでいて思う。難解な横文字やIT用語、冗長(じょうちょう)な言い回しの文章に疲れてきているなぁと。そんなの無理して読まなきゃいい。たしかにそうだ。

この傾向はブログを書くようになってしばらくしてから出てきたものだ。以前までは、なんとなくわかったような気分になって、そんな小難しい知的な記事を理解できる(と思っていた)自分に酔っていた。そして、いつかぼくもそうなる(なれる)のだと思っていた。

常に情報化社会の最先端を疾走している(ように見せる)さまは、いかにも自由にみえるし、何より憧れる。でも、その内情は、情報を横断的につまみ食いして、ワケのわからない用語まくし立て、読者を煙にまいているだけだったりする。

クリエイティブとか知的って褒め言葉だ、少なくともぼくにはないものだから。だから、必要以上に意識する。知的にみせなきゃって。でも、よく考えたら、そんなの自分じゃないんだよな。

そういう文章の意図をなんとか汲み取って、書き手の言いたいことは何だろうって考えたあとに残るのは徒労感だったりする。そうして、結局わからないまま記事から離脱するのだ。

おそらく書いている本人でさえ、わからないのだろうな。

「物語のある広告コピー」(パイ・インターナショナル/刊)

『偉人の食卓 太宰 治』

食べ過ぎて、すみません。

「子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。」そんな『人間失格』の一節からは想像できないほど、実際の太宰治は、よく食べよく飲む大食漢だった。

高校時代は、いつも三杯分の味噌汁を魔法瓶に入れ登校し、作家になってからも、その大食ぶりで周囲を驚かせたという。結婚後は、特に家では素材も調理も出身地である津軽風にこだわった。

郷里から毛蟹が送られてきたときなどは、大の男がまるで子どものように有頂天になって喜んだ。ほかにも、湯豆腐、筋子納豆、根曲がり竹などが大好物で、美知子夫人は自身の回想録で三鷹の街を毎日食料集めに奔走したことを記している。

また、太宰は自他共認める大の味の素好きでもあった。

『HUMAN LOST』の中の「私は、筋子に味の素の雪きらきら降らせ、納豆に、青のり、と、からし、添えて在れば、他には何も不足なかった。」という主人公の語りも太宰自身の本心なのだろう。

貪欲なまでの食事への執着は、この作家のいきることに対する力の限りの執着のようにも思えてくる。

「偉人の食卓 太宰 治」というキャッチコピーを見て、興味がでた。なるほど、味の素が好きだったのか。

筋子に味の素をかけて、納豆に青のり、からしの組み合わせ。

たしかに、ご飯がすすむ。

根曲がり竹、毛蟹、湯豆腐となんだか、太宰家の食卓が目の前に浮かぶようでおもしろい。再現してみたくなるし、実際に食べてみたくなる。お腹が空いた。

「物語のある広告コピー」(パイ・インターナショナル/刊)

『人生は、キャビアやコニャックだけでは、ちょっと足りない。』

開口健。

若くして文壇にその才能を認められ、企業の宣伝部にあって一世を風靡する宣伝をいくつも手がけるかと思えば、戦火のベトナムから命がけのルポタージュを書き送る。

そんな多忙の間をぬって、地球の果ての大河に飛んで壮大なフィッシングを愉しむ。すべてが桁はずれ。小説家の枠におさまらない行動力で人々を魅了した。
彼のもうひとつの顔は、美食家。ワインやコニャックを愛で、キャビアに舌鼓を打ち、世界を縦横に駆けめぐってあらゆる料理を味わい尽くした。

(中略)

美食も冒険も人生を豊かにする。
しかし、それだけでは何かが足りない。
肩の力をぬいて、ふだん着のまま楽しめる何かが足りない。

酒が好きだったそうで、スコットランドの酒店でザ・マッカランに出会い、「ノーブルや!」と叫ぶ美食家、開口健を思い出してしまった。ははは。

偉人の食卓事情って気になる。
旅に行くデ!出発ゃ!作家ではなく、旅人としての開高健(かいこうたけし)の魅力を全力で伝えてみる。

「物語のある広告コピー」(パイ・インターナショナル/刊)

『そういえば、どこからが空なんだろう。』

親友の真理子が結婚する。
高校の仲良しグループで、未婚者は私だけになってしまった。

いや、いいのだ。
私は仕事に生きるのだ。
と、数年前までは開き直れたけれど、ファッションの仕事は、年齢に厳しい。
若い子に囲まれて、近ごろ私は、浮いている。

この先どうなるんだろう。幸せって何だろう。
焼き鳥をかじり、ビールで流し込む。

考えごとですか、と聞いてきたのは店の主人。

「どこから空なんだろうって思って」とふいに私は答える。

子どものときから、ずっと疑問だった。
私の頭の上と空はつながっている。
だけど、それが、どこからはじまるのか。
教科書には、書いてない。

「飛びたいと、思う高さからですかね」

グラスを拭きながら、主人は答える。
禅問答みたいな回答だけど、私には響いた。
そっか。空の高さは、みんなにとって違うんだ。
くらべるより、どうなるかを思うより、どうしたいか、を考えればいい。
そう言われたようで、少し気が楽になった。

残っていたビールを飲み干す。
頭の中では、勇ましい鷹が空を飛んでいた。

何かのきっかけで「そういえば」と、ふと気になることがある。そういう答えを学問的に考えてみる。たとえば、この「どこから空か?」という疑問には、空があるという暗黙の前提を疑ってみる。

実はぼくらがみている空なんて存在しないのかもしれないね。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」のような発想。ここまで自分で言ってみて、まったく面白くない。

まだ、鳥やプロペラの飛行機が飛べる空間とかを科学的に調べて、空だと定義したほうが、興味深いかもしれない。

ぼくの想像する空って、2つある。ひとつはアニメや小説の中だけにしか存在しない空想上の空だ。それは、巨大な積乱雲が浮かび、ときには嵐もあって、未知の冒険ができる空。テクノロジーが発達した今、そういう未開の領域はなくなってしまった。

もうひとつの空は現実の空だ。空を見上げたときの自分の思考が届く高さを想像してほしい。夜空を見上げて、星を見つける。そこまでの遠い距離を想像するとしようか。そこまでの空間の広がりを空だと思う。

ビルに挟まれて、チラッと見える曇天。そんなときの空は狭い。何もない青い空、どこまでも吸い込まれそうになる。こういう時の空って広い。

「飛びたいと、思う高さからですかね」という主人の答えは哲学的で面白い。みんなの思う空の高さって違うのだ。

そんなことを考えるうち、空がどこからか?なんてどうでも良くなった。
なぜか無性にビールが飲みたくなった。

あとがき

言葉のちからは強い。言葉は人を傷つけるし、勇気づける。言葉は大きな可能性を持っていると思うのだ。

たった一行の文章でも、書き手の思いが詰まった文章は伝わるし、たくさんの文字で埋め尽くされた文章でも、心のこもっていない、ただ文字を羅列しただけだけのような文章は伝わってこない。

過去の記事を見返すことがある。

自分で書いて、納得して公開した記事なのに再び読み終えたあとで、なんとも言えない不自由な気持ちになることがある。この気持ちは何だろう。



読まれない記事って特徴がある。自分の気持ちに偽りがあって、体裁だけ整えた記事だ。それは、のっぺりとした能面のようででツルツルとして引っかかりがない。そういう文章の記事ってやっぱり読まれていない。

読み手のことを考えていない、ひとりよがりな記事も読まれない。相手の興味関心の外で、いくら良いこと言ったって、だれも見向きもしないのだ。相手の興味関心のなかで、自分の興味関心が重なる部分。そういうところを見つけて、自分の気持ちに正直に書く。それが、読まれる記事を作るコツだと思う。

勘違いしてはいけないのが、ただ思ったことを正直に書けばいいというものでもないということだ。自分の伝えたいメッセージを、誤解されることなく伝える努力はしなくてはいけないし、伝えるための文章を書く訓練だって必要なのだ。そんな中でたまに遊ぶのもいい。

作家、司馬遼太郎の講演録「司馬遼太郎が語る日本」のなかで”練度の高い正直”という言葉が出てくる。

司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録愛蔵版4 練度の高い正直

日本人だって正直ですよ。正直という点では、私は自分の国だからえこひいきするわけではないけれども相当正直な国民の多い国だと思います。
ところが、それは天然なものであって訓練で生まれた錬度の高い正直さではない。

正直だって程度があるのだ。バカな正直は受け取る側も疲れてしまう。”正直に書いたつもり”を言い訳にするのではなく、書き手として正直に書けるように日々、訓練しなくてはいけないなぁと思う。

過疎ブロガーっておまえのことだと返ってきそうなタイトルがいささか、ブーメラン気味なのはさておき、文章を書くときに必要なのは豊かな表現力だと思うのだ。

基礎のない状態で、漫然と文章を練ったところで、読まれる記事なんてできっこない。

だから、本を読もう。多様な文章表現のために。

-関連リンク-

コピーライターに学ぶ、何度も読みたくなる文章の書き方


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