世界は明日変わるかもしれない。そう思わせる報道写真16選!!

    

そもそものはじまりは学生時代に見た、たった一枚のモノクロ写真だった。

そこには、女性が写っていて、手を後ろにやり、大口を開けて、驚くでもなく、悲観するでもない、得も言われぬ表情を浮かべているのである。

なんともこの女性に会ってみたくなった。

ただ、古い。それだけはわかる。その他の付随的な情報など知る機会もなく、月日は流れていった。いまは、旅先で偶然出会って親しくなった”あの娘(こ)”を想う心境である。

会えたかって?

会えたのである。いまこうして。

1958年8月、絶叫してエルビスを迎える観客たち

現存する世界最古の写真は、1825年ニセフォール・ニエプスの「馬引く男」である。その後、写真の技術が広まるとともに、それまでは言葉で、あるいは絵で残すしかなかった世界を、見たままに残せるようになった。

ときに、写真は言葉よりも多くを語る。

「世界を変えた100日 写真がとらえた歴史の瞬間」(日経 ナショナルジオグラフィック社/刊)を通して、早足で世界を見た。1つのトピックに、たかだか数枚の写真。いったいそれで、何がわかるというのだ。とまぁ、そう言わずに最後までお読みいただきたい。

※この先は一部刺激的な内容が含まれています。閲覧には十分注意してください。

1858年1月30日 グレート・イースタン号

1858年といえば産業革命の初期である。産業革命前夜といえば何を想像するだろうか。ぼくは蒸気機関を想像する。それも巨大な、何か。

コークス(石炭)を燃焼室に放り込み、ボイラーが唸(うな)りを上げる。すべてが無駄に巨大でうるさく、活気に満ちている。

いまでは、懐かしの蒸気機関車といったレトロ懐古趣味的な、古き良きに限って見ることのできる旧世代テクノロジーという位置づけになってしまったが、その当時は紛れも無く時代の最先端だった。

リヴァイアサン(写真の船体、のちのグレート・イースタン号)

ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間は大英帝国の絶頂期であるとみなされている。そのヴィクトリア時代にリヴァイアサン(写真の船体、のちのグレート・イースタン号)は作られた。

その巨大な図体、規模を、リヴァイアサン(巨大な海獣という意)という名付けから推して知るべし。この超大型蒸気船は遠く喜望峰を周り、インド、中国を経て東へと、有事の際には10,000人を超える兵士を運べる設計になっていたという。1858年1月30日は、その巨大な海獣が進水した日である。

写真はジョン・スコット・ラッセル社のミルウォール造船所にて。

1865年4月14日 リンカーン大統領暗殺

たった一枚の写真が、力強く語りかけてくるときがある。それは時に暴力的で、容赦が無い。まずは善も悪も、いったん飲み込んで一枚の写真と対峙する。写真のコンテクスト(文脈・背景)を知るのは後でいい。

ジョン・ウィルクス・ブース、ルイス・ペイン、デビッド・へロルド、ジョージ・アッツアーロット

第16代合衆国大統領エイブラハム・リンカーン(1809年~65)はアメリカで最も偉大な指導者として挙げられることが多く、ここ日本では、南北戦争や奴隷解放宣言と関連し歴史の教科書に度々登場する。

”Government of the people, by the people, for the people”

「人民の人民による人民のための政治」

この一節はあまりにも有名。ゲティスバーグ演説の内容だ。

一方で、民族浄化ともとれるロング・ウォーク・オブ・ナバホや、ダコタ戦争など、多くのインディアン戦争がリンカーン政権下で行われたことは意外と知られていない。

調べていくと、違った一面も見えてくる。たとえば、奴隷解放宣言の本質は、自身が所属する北部連邦の存続が、最優先課題で、政治的な意図のもとに行われた。そもそも、南北戦争自体が奴隷制度云々ではなく、南部と北部の経済・社会・政治的構造の歪みから起こった戦争であることも興味深い。

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さて、話を戻そう。南北戦争は1865年4月3日に南部の首都リッチモンドが陥落し、9日にリー将軍が降伏したことで、事実上終結する。その5日後のことだ。

26歳になる俳優ジョン・ウィルクス・ブースは南部連合国を支持する人種差別主義者。彼は偶然4月14日の朝に、合衆国首都ワシントンのフォード劇場で、その日の晩に大統領が観劇するとの情報を得る。

すぐさま、仲間たちと連絡を取り合ったブースは最後の準備を整えた。

その日の午後8時30分、リンカーンとその妻、ラスボーン少佐とその婚約者がフォード劇場に到着。そして午後10時7分、ブースは拳銃と狩猟刀を手に劇場に入り、大統領のいるボックス席へ向かう。

至近距離から後頭部めがけて引き金を引き、ラスボーン少佐の腕を刺した。1,000人を超える観客が悲鳴を上げるなか、そのまま3メートル下の舞台に飛び降り、着地の衝撃で骨折した足(左足の腓骨を骨折した)をかばいながら逃走する。

リンカーンは、すぐに劇場向かいの民宿に運ばれたが、翌朝に息をひきとった。

写真は1865年7月7日に写真家アレクサンダー・ガードナーによって撮られた共犯者4人(ジョン・ウィルクス・ブース、ルイス・ペイン、デビッド・へロルド、ジョージ・アッツアーロット)。コロジオン湿板ネガ(コロジオンを用いた写真方式)を使い、誰もいない処刑台から執行に至るまで、一部始終がカメラに収められた。

1889年5月6日 エッフェル塔、公開

1789年のフランス革命から100周年にあたる1889年5月6日に、当時の大統領サディ・カルノーがパリ万博除幕式を行った。

この博覧会の目玉で鉄骨の巨大パビリオンといえばエッフェル塔のことである。高さ300メートルのこの塔は1931年にエンパイア・ステート・ビルが完成するまで世界一の高さを誇っていたというから驚く。

エッフェル塔

設計者は、ブルゴーニュの技師ギュスターブ・エッフェル(1832~1923)。

塔を好きになる人もいれば、嫌いになる人もいて当然で、エッフェル塔をフランスのあらゆる悪の元凶とみなしたのがフランスの作家エドワール・ドリュモン。

内田樹さんの「『愛己心』な人々」というエントリーがドリュモンに関連していて興味深い。

フランスには「深層フランス」と「表層フランス」の二種類の存在様態がある。「深層フランス」はフランスの大地の古層にある水脈のようなもので、そこから「フランス文化の精華」が豊かに湧き出ている。

「真のフランス人」というのはその恩沢に浴すことのできる人間である。彼らは生まれついてずっと「真のフランス人」である。ご飯を食べていても昼寝をしていても、まるまる「真のフランス人」であるので、「フランス人であれば、どうふるまうべきであろう?」という問いが芽生えたときには「自分はどうしたいのか?」という問いに書き換えればよろしい。

「愛己心」な人々

ドリュモンは深層フランスの”真のフランス人”で、エッフェル塔を徹底して毛嫌いした。とはいえ、パリの、フランスの民衆の大半がエッフェル塔に夢中になっていたというなんとも皮肉な話。

NHK 不思議の海のナディア

「不思議の海のナディア」ってアニメがある。新世紀エヴァンゲリオンの監督、庵野秀明の初期の作品で、科学と空想のロストテクノロジー的な展開のストーリー。これはジュール・ベルヌの「海底2万マイル」が原案になっているのです。これたしか、パリ万国博覧会の時代設定だったような。

急に気になって、NHKのサイトを調べてみたらやっぱりそうだった。

不思議の海のナディア|あらすじ

世界中の海で謎の巨大生物”海獣”が出現するなんてストーリー設定は、リアルのリヴァイアサン(先述のグレート・イースタン号)を思い出してワクワクするなぁ。そういえば当時、NHKの放送を毎週楽しみにしていた。

アニメのテーマソングを聴くと懐かしさでこみ上げてくるものがあるね。

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1897年6月22日 栄光の式典

「愛する我が国民の皆さんに心から感謝します。皆さんに神の祝福を」

ビクトリア女王の言葉は、すぐさま世界中の帝国民に電信で伝えられた。

ビクトリア女王即位60周年記念 公式肖像画像

78歳になるビクトリア女王は、この日で即位60周年を迎えた。波紋織りの黒いドレスが印象的だ。

話は変わって、血友病という病を聞いたことはないだろうか。この病気は突然変異で生じることもあるが、主に遺伝によって生じる。この病気の特徴は血液を凝固させる因子が通常より極端に少なく、ちょっとした出血が致命的になるということだ。

後世のヨーロッパ(イギリス、スペイン、ロシアなど)の血友病患者の出た王家の血筋を遡っていくと、興味深いことにすべてがヴィクトリア女王に行き着く。

遺伝学的にもそうだが、その当時の大英帝国の影響力の強さが窺(うかが)い知れるエピソード。

1903年12月17日 ライト兄弟

この日の朝、ノースカロライナ州北部キティホークの海辺で、ウィルバー(1867~1912)とオービル(1871年~1948)のライト兄弟により、人類史上発の有人動力飛行が行われた。

ライト兄弟、人類史上発の有人動力飛行

地元の人たちは以前から彼らを頭のおかしい2人組だと思っていたようだ。彼らは海辺で何時間もカモメやカツオドリを観察しては翼の動きを腕と手でマネていたというからそりゃ、そうだと納得。

初期は凧が原点。そこから改良を重ねて写真の複葉機の形になる。初飛行は弟のオービルによるもので、12秒間滞空し、36.6メートルの距離を飛んだ。最終的には兄ウィルバーが59秒間飛び続け、その距離は260メートルに達したという。

航空機時代の幕開けである。

1905年5月28日 日本海海戦

時代はまだ大艦巨砲の時代である。冬は凍結し、外海への道を閉ざされるロシアにとって、不凍港(冬でも海が凍らない港)である旅順港は極東支配に欠かせない場所だった。

1904年、満州沙河近くの日本軍陣地

旅順港に停泊中のロシア艦隊へ、宣戦布告なしの奇襲攻撃を行ったことで始まった日露戦争は、朝鮮の支配権をめぐる戦いである。

1905年5月27日~28日には、日本海海上で東郷平八郎大将率いる日本海軍とロシアの主要艦隊(バルチック艦隊)が衝突し、これを日本軍が潰滅。海戦史上でもまれな、完全勝利だった。これを契機にポーツマス条約(日露講和条約)が結ばれることとなる。

写真は1904年、満州沙河近くの日本軍陣地にて。

1909年7月25日 ドーバー海峡初横断

ドーバー海峡はイギリスとフランスを隔てる海峡の最狭部だ。

ライト兄弟の有人飛行から数年。人々は飛行機の制作に夢中になっていた。フランスのルイ・ブレリオもその一人。あるとき、ロンドンのデイリー・メール紙がドーバー海峡の横断飛行に最初に成功したものに賞金を出すと発表した。

「英国が難攻不落だった時代は過ぎ去った・・・空軍力は海軍力に等しく不可欠なものになっていくだろう・・・」

ドーバー海峡の初横断に、ルイ・ブレリオが成功した翌日(1909年7月26日)の新聞見出しである。文面を見る限り、イギリスにとって、ルイ・ブレリオの偉業はひどく失望する出来事だったらしい。英紙の懸賞金を受け取るのがイギリス人でないばかりか、海以外から攻撃を受ける可能性さえでてきたからだ。

ルイ・ブレリオ、ドーバー海峡の横断飛行

失望する大英帝国とは対照的に希望でいっぱいのフランス人ブレリオは、得た賞金で念願の飛行機工場を建てたということだ。

写真は1909年8月3日、北部フランスのカレー(calais)近くを飛行する様子をとらえたもの。万能の科学、未知への冒険とロマンにあふれる一枚。

しかし、ずいぶんと世界の空は狭くなってしまったなぁ。

1911年7月24日 マチュピチュの発見

モノクロの空が重くのしかかってくるようだ。その下の石の構造物は花崗岩のブロックを積み重ねたものである。ここはペルー南部のアンデス山中。

古代インカの失われた空中都市、マチュピチュ

奥に小山のように見えるのが、ワイナピチュ。小山といったが、標高2,720メートルもある。あたりまえだが、この当時は、バスも電車もなく、本当の意味での秘境だった。

1911年7月24日に米国エール大学の若き教授ハイラム・ビンガム3世(1875~1956)はペルーのクスコから80kmの険しい道のりを歩き、ようやくここに辿り着く。そこで発見したのが、古代インカの失われた空中都市、マチュピチュだった。

ぼくの想像では樹木や、つる植物に埋もれてひっそりとしている廃墟のイメージなのだけどそうではなかったようだ。実際には段々畑でとうもろこしなどの穀物を栽培しながら古代遺跡を住居の代わりにして、現地人数人がここで生活をしていたのだという。

旅レポのようなものを探してみたら、あった。ここが一番画像が大きく綺麗で見やすい。

念願のワイナピチュ山(標高2693m)に登頂。~マチュピチュ編~7ヵ国目 南米・ペルー53日目 前編

念願のワイナピチュ山(標高2693m)に登頂。~マチュピチュ編~7ヵ国目 南米・ペルー53日目 前編

1911年12月14日 南極点、初到達

「勝利は完璧な準備と共にある。人はこれを幸運と呼ぶ。準備を怠れば必ず敗北が訪れる。人はこれを不運という」と言ったのはノルウェーの職業探検家ロアル・アムンセン(1872~1928)だった。

ノルウェーの職業探検家ロアル・アムンセン(1872~1928)

1911年10月、アムンセンとスコット(大英帝国海軍少佐)の両探検隊がそれぞれのベースキャンプを出発。彼らは南極点への一番乗りを競うことになっていた。

1911年12月14日にアムンセンは南極点に到達し、無事に帰還。スコット隊は壮絶な死を遂げる。以下、スコット隊の捜索にも参加したアスプレイ・チェリーガラードの分析。

1、アムンセン隊は犬ゾリとスキーによる移動で極点に到達したが、スコット隊は当初使用した雪上車、主力とした馬による曳行が悉(ことごと)く失敗し、人力でソリを引かざるを得ず、いたずらに体力の消耗を招いた。

2、寒冷な気候に強いとされる品種の馬を用意していたものの、馬そのものの体重が重いため雪に足をとられたり、クレバスに転落した事などに加え、馬が生存できる耐寒温度を遥かに下回っており、馬は体力の低下とともに次々に死んでいった。

3、アムンセン隊では現地に棲息する海獣を狩るなどして携行食糧を少なめに抑え、足りなかった場合は犬ぞりの犬も食用としている。一方スコット隊は全ての食料を持ち運んだ。特に馬のための干草類は現地では全く入手できるものではない上、馬の体力消耗で思いのほか早く尽きてしまった。

4、アムンセン隊が南極点到達を最優先していたのに対し、スコットは地質調査等の学術調査も重視しており、戦力を分散させる結果となった。

5、アムンセン隊は南極点への最短距離にあたるクジラ湾より出発したが、スコット隊は学術的調査の継続のため、より遠いマクマード湾より出発せざるを得なかった。

6、スコット隊の最終メンバーは、43歳のスコットを筆頭として30代が中心であり、30歳未満の若い隊員はバウアーズ一人だけであった。

7、夏期としては異例とも言える長期間の暴風雪に見舞われた。

南極到達レースの敗因・遭難の原因の分析

不運は誰にでも訪れる。言い換えれば、誰もが準備を怠るからだ。幸運の掴み方というものは、じつはとてもシンプルなのかもね。

1921年4月14日 タイタニック号沈没

ホワイト・スター・ライン社の豪華客船タイタニック号が英国サウサンプトン港から米国ニューヨークを目指して処女航海に出た。映画タイタニックさながらに、持つもの持たざるものを乗せて。

1921年4月14日午後11時40分、タイタニック号は氷山に衝突し、水密区画に浸水。船体がゆっくりと傾き始める。

贅を尽くした、当時世界最大の客船タイタニック号に唯一足りなかったもの、それは十分な数の救命用ボートだった。残された乗員乗客1,496人は船とともに海に沈み戻らなかった。

「ロンドン・イブニング・ニューズ紙」を売る新聞売りの少年 タイタニック号

タイタニック号の惨事を撮った写真というものは一枚も存在しないのだそうだ。写真はタイタニック号の所有会社ホワイト・スター社のオフィス前で「ロンドン・イブニング・ニューズ紙」を売る新聞売りの少年。

1914年6月28日 第一次世界大戦前夜

オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者、フランツ・フェルナンド大公(1863~1914)は、妻ゾフィーとともに1914年6月28日日曜日にここ、ボスニアの首都サラエボでセルビア人の青年によって暗殺された。

サラエボ事件

これが、1千万人ともいう犠牲を出した第一次世界大戦という歴史の原点である。このセルビア人青年はテロリストなのか、英雄なのか。正義ってなんだろうと考えさせられる。戦争は悪いという姿勢はいまも変わらないのだけど、ただそれを盲目的に信じることにどこか、むず痒さを感じてしまうのだ。

1917年11月20日 史上初の戦車戦

“新奇なもの”、である。それは1917年11月20日早朝から、ドイツ軍の防衛戦に向かって前進を始めた。深い霧の中から突如として現れたイギリスのマークⅣ戦車は、さぞかし不気味に映っただろう。

塹壕を乗り越えるための大量の木材を運び、鉄条網を絡めとる役割を果たし、この”新奇なもの”は結果的に第一次世界大戦終結への扉を開く。

マークⅣ初期型戦車

1927年5月21日 大西洋横断飛行の成功

「リンドバーグがやりました・・・今夜、灰白色の飛行機が静かに闇のなかから忽然(こつぜん)と姿をあらわし・・・」

大西洋横断飛行、リンドバーグ

大西洋横断、距離にして約5,600kmにもなる。当時の技術では困難な偉業、大西洋横断飛行を成し遂げた人物がチャールズ・リンドバーグ(1907~74)だ。

1927年5月20日午前7時40分、ニューヨーク、ロングアイランド島ルーズベルト飛行場から1,707リットルのガソリンとサンドイッチ4つ、水筒2本という装備で飛び立つ。行き先はフランスのパリである。

1927年5月21日午後10時24分、フランスのル・ブルージェ空港に着陸。

その時の様子をジャーナリスト、エドウィン・ジェームズが伝えている。「リンドバーグがやりました・・・」と。

1929年10月29日 世界大恐慌

“暗黒の木曜”という言葉、投資をしたことがある方なら一度は聞いたことがあると思う。今から80年以上も前のことで、この日ニューヨーク証券取引所のダウ工業平均株価は大暴落した。その後、世界の大部分を巻き込みながら、米国は大恐慌の時代に突入する。

暗黒の木曜、世界大恐慌、株価暴落

写真はニューヨーク財務省分局前で、そこにいる大勢が落ち着きなく辺りをうろついている。

世界恐慌の原因が何なのかは、経済学者に任せるとして、今も昔も変わらないと思っていることがある。それは、人間の欲と恐怖(つまり感情)が価格を動かす唯一絶対であるということで、そのことをぼくは信じて疑わない。

オランダのチューリップバブルから、2000年代のインターネットバブル、近年のサブプライム・ショックだってそうだ。根底には人間の強欲があって肥大し、恐怖で市場は崩壊してきた。

バブルは繰り返すというけれど、たしかにそのとおりで、良い悪いではなく、そういうものなのかもしれない。

1940年12月29日 ロンドン大空襲

ドイツ空軍(ルフトバッフェ)と英国空軍(RAF)との戦いを、バトル・オブ・ブリテン(英本土航空決戦)という。アドルフ・ヒトラーと空軍元帥ヘルマン・ゲーリングにとってこの作戦の目的は英国空軍を殲滅して地上軍を海上から送り込むことだった。

煙のなか浮かび上がるセント・ポール大聖堂

戦闘は膠着していた。

戦局を打開したいゲーリングはドイツ空軍に特別任務を与える。それは夜間の首都ロンドン空爆である。

1940年12月29日の空爆が最も激しかったといい、その当時の写真が残っている。写真は「デイリー・ミラー紙」の社屋から撮られた炎上するロンドン市街の様子で、煙のなか浮かび上がるセント・ポール大聖堂が気高く美しい。

ここはひとつ、政治的なイデオロギーやプロパガンダ抜きに見てもらいたい。

ロンドン大空襲、地下鉄に避難するロンドン市民

ロンドンの地下鉄に避難するロンドン市民。

1941年12月7日 真珠湾攻撃

真珠湾の歴史的重要性は計り知れないという。なぜだろう。

真珠湾奇襲攻撃のために真珠湾へ向けて出撃する艦上機

当時のアメリカは孤立主義をとっていた。もし真珠湾への奇襲攻撃がなければ、アメリカは第二次世界大戦に参戦しなかったかもしれない。第二次世界大戦で連合国が勝利できたのは圧倒的な物量と資源の差で、それを可能にしたのが、アメリカ。

歴史の”IF”を考えるのは知的な遊び。もし、アメリカの参戦がなければ、ドイツのバルバロッサ作戦(対ソ侵攻)がなければ、どうなっていただろうか。ナチス・ドイツは存続し、東欧諸国はナチスの衛星国になっていたかもしれないね。

写真は、1941年12月7日、空母の甲板から真珠湾へ向けて出撃する艦上機。

さて、今回は近代以前~近代を一気に駆け足で見てきました。次回は後編、近現代です。個人的なチョイスなので、漏れ無く見たい人は実際の本を手に取ってみてください。250余枚の歴史の瞬間があなたのものです。

後編はこちら。

いかに知らないか、を知る。「世界を変えた100日」は思考のための一冊



あとがき

最後に撮ったフィルムカメラの写真は、北海道のナイタイ高原牧場から撮った一枚。いまでも机の傍ら、手の届く所に置いてある。CONTAX T3(フィルムカメラ)で撮ったから保存はネガということになるのだけど、その肝心のネガがずいぶん昔に何処かへ消えた。いよいよ最後の一枚になった。

写真が好きなのだが、なぜ好きなのか自分でもよくわからない。説明しようと試みたのだけど、うまく言葉にできなかった。あれこれ悩んだ挙句にでた結論は”写真の表現力”だろうということ。

大の大人が、何時間も使って真剣に考えた結果、出したのがこれ。恥ずかしながらこんなものなのである。あはは。

もっと、言葉を尽くして、その先の深いところにある何かを伝えたいと思うのだけど、いまのぼくには到底無理な話で、だからこうして浅瀬で立ち往生している。

-関連リンク-

「安倍構想」とか「集団的自衛権」について、よくわからない?教えてやるからちょっとこっち来い。


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